Mie Prefectural Yokkaichi Commercial High School
学校概要
学校長挨拶
令和5年4月、第38代校長として三重県立四日市商業高等学校に着任し、2年目を迎えました奥田隆行です。どうかよろしくお願いいたします。 本校は、今年で128年目を迎えます。多くの地元の方に支えられ、地域に愛され、地域から必要とされる高校となっています。本校の校訓である「至誠」とは、『いついかなる時でも、人に対して誠意を尽くせる人間であれ!』ということで、創立以来受け継がれています。
目指す学校像は、校訓である「至誠」の精神のもと、商業教育・普通教育を通じて知・徳・体の健全な成長を促し、地域と連携しながら専門性の高い社会人を輩出できる学校です。
育みたい生徒像は、礼儀やマナーをしっかりと身につけた上で、生きて働く知識・技能を備えるとともに、未知の状況にも対応できる思考力・判断力・表現力を持ち社会に貢献できる人材、様々な変化に積極的に向き合い、他者と協働して課題解決ができる能力を持ち、社会人として活躍できる人材です。 専門学科「商業」では、「生徒が自ら考え、課題の解決に向けて情報を収集・整理・分析し、協働的に学びを進めていく探究的な学び」の授業に取り組んでおり、将来、ビジネス社会で活躍するために必要となる「主体性や実行力」、「課題を発見し納得解を導き出す力」、「チームで活躍する力」などを育成する教育を行っております。
これからも四日市商業高等学校は、時代の変化を敏感にキャッチし、教育内容も変化に応じて柔軟に対応するとともにコミュニケーションあふれる教育活動を実践することで、社会や地域に貢献できる人材を育成していきます。
沿革
校訓「至誠」
「至誠」は、幕末の吉田松陰が「松下村塾」で高杉晋作や桂小五郎、伊藤博文に、「至誠を貫きなさい!普段やらなければいけないことを、真剣に誠意をもって行いなさい」と教え、好んで用いた言葉です。「至誠にして動かざる者は、未だ之有らざるなり」「誠を尽くして人に接すれば、心を動かさないものはこの世にない。まごころを十分に発揮しようと思い努力することこそが人の道である」と。出典は『孟子(離婁章句上 十二)』。「誠身有道、不明乎善、不誠其身矣、是故誠者、天之道也、思誠者、人之道也、至誠而不動者、未之有也、不誠、未有能動者也。」「まごころ」をもってことにあたれば、人は必ず動いてくれます。1921年(大正10年 創立25周年)に「至誠の鐘」が同窓会から寄贈されたことを考えると開学当初からの校訓であることが伺われます。
基本理念
【めざす学校像】校訓である「至誠」の精神のもと、商業教育・普通教育を通じて知・徳・体の健全な成長を促し、地域と連携しながら専門性の高い社会人を輩出できる学校
校章の由来
真中に位置する羽のついた「杖」は、ギリシャ神話の中に「商業の神」として登場しているヘルメスの象徴です。「羽」がついているのは、その時代一番速いとされていた鳥を表わし、「迅速」を意味し、「YC」は、四日市商業。まとわりつく二匹の「蛇」は、「利口さ」を表わします。商業というのは、「迅速さを持ち、利口さがなければなら」ず、ヘルメスの杖は「物に触れるとなんでも黄金になる」という事から、商業が営利を目的にしていることを表わしています。
泗商の「泗」
本校の略称は「泗商」と書きます。校歌にも「泗水の空に」と「泗」の漢字が用いられています。本校は、「四日市町 南町(現 在の中部・西新地・諏訪の一部)」に開校されました。西には鈴鹿山脈が連なり、これを源に南に三滝川、北に海蔵川が東の伊勢湾に注ぎ、それらが学校を囲む地形でした。中国で孔子が塾を開いた「泗水の地」と似通っていたためか、明治の先輩たちが「泗水の地」に初めて創立された学校を「泗水の商業学校」=「泗商」と称し、「泗」の漢字を使ったのではないかと推察しています。藤本幸太郎先生を讃える銅像
翁は明治十一年福井県に生まれ、後四日市市に在住。四日市商業学校第一回の卒業生で後東京高等商業学校を卒業し、明治四十三年同校の教授に任ぜられ英独両国に留学。我国最初の商学博士の学位を受けた後、東京商科大学(現一橋大学)名誉教授となり昭和四十二年六月東京都中野において永眠されました。勲二等旭日重光章の栄誉に浴し、保険並びに統計学の泰斗で特に、海上保険は我国最高権威で、まさに泗商のシンボルです。